全県で犠牲を

国内宣教スピリット_ページ_2

シリーズ「国内宣教スピリット」2
      「『全県』で『犠牲』を」    廣瀬《ひろせ》 薫《かおる》

世の光第682号2007年7月1日 NO.130国内宣教 より

 ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。
                           ルカ福音書4章43節

 「1億2千万宣教」を展開するために掲げている「全県に同盟の教会を」とは、何を意味しているのでしょうか。これを「同盟の覇権主義」のように言う意見を聞いたことがあります。しかし以前伝道部で教会開拓の実際を知って来た筆者の感想を言えば、これは実感からかけ離れた見解だと思います。

●開拓伝道は、どの地域で行っても犠牲の多い働きです。もし覇権を目指すのならば、与えたり犠牲を払う株分けや開拓など考えずに、ひたすら既存教会の拡大を目指して「与えずに受ける」方が理にかなっていると思います。しかしそれは聖書の教えではなく、仮にそれで教会教団が大きくなっても、神様に喜ばれはしないでしょう。同盟教団は主に喜ばれることを目指しているので「犠牲を惜しまない宣教の姿勢」を掲げて全県への伝道に取り組んでいるのだと思います。

●前号に「キリスト教世界観」に立った「1億2千万宣教」を書きました。「救霊」に終わらず、「創造」から「完成」に至る視野が大切です。キリストの十字架と復活は、全世界を完成する包括的な力を持っています。ではその完成への歩みは、どのようにして進められるのでしょうか。それは「十字架を担ってイエス・キリストについて行く」実践によってです。それを筆者は「蹟罪的実践」と呼んでいます。
 今の世界は正反対の原理が支配しています。自ら犠牲を払わずにそれを他者、特に弱者に押しつけて「勝ち組」を目指す姿勢です。それは人も家庭も仕事も社会も本当には活かさない、聖書が言う「死」の状態です。そこに「命」をもたらす大切な実践原理を、私達は「霊的、人的、財的に犠牲を惜しまない」宣教協力理念として持っているのです。

●すると「全県に同盟の教会を」の意味は、「同盟教団は、全県で犠牲を払うつもりだ」となるでしょう。あるいは「全県で十字架を担いたい」と言っても良いでしょう。
 事実、同盟教団の今までの拠点伝道の歩みを振り返れば、それは関西以西の全ての教会にとっても、北海道や東北の教会にとっても、多くの実りを「与える」ものとなって来たと思います。その背景に、現地で担当者を初め関係者が担った多くの「犠牲」があり、またそれを単なる「人間的労苦」に終わらせず、「贈罪的」に命をもたらす働きとして用いて下さった神様の恵みがあったことを思います。筆者自身、東北の開拓が、いかに先行教会にも他教団にも、望まれ、喜ばれ、祈られ、協力を得て実現して行ったかを見、嬉しい経験を致しました。
 今や残る「未設置県」は、客観的データによれば、いわゆる「伝道困難県」ばかりです。同盟教団の覇権意識を心配するよりも、伝道困難な地域の犠牲は他に任せて自分は手を出さないのかという心配をした方がいいと思います。神の国のための「犠牲」を「全県」に払いたいものです。
(現日本同盟基督教団理事長)

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